テレビではサッカーの中継が流れている。
試合の翌朝になれば、ニュースはどの局もその話題を取り上げる。
職場へ行くと、案の定その話で持ちきりだった。
「昨日、見ました?」
「最後のゴールは鳥肌が立ちましたね。」
そんな会話があちらこちらで聞こえてくる。
私も笑いながら頷く。
「いやあ、すごかったですね。」
もちろん結果は知っている。
朝のニュースで見た。
ハイライト映像も流れていた。
だから話についていくことはできる。
でも、本当は試合そのものは見ていない。
見ようと思わなかった。
以前なら、そんな自分を少し気にしていた。
世の中が熱狂しているものに心が動かないことを、どこか寂しく感じていた。
年を取ったのだろうか、と。
けれど最近は、その感覚を少し違う角度から眺めるようになった。
興味がなくなったというより、本当に心が動くもの以外に無理をして反応しなくなっただけではないか、と。
同じようなことは、仕事の会合でも感じる。
講演会が終わり、立食の懇親会が始まる。
会場のあちらこちらで名刺交換が行われ、小さな輪がいくつもできる。
その輪から輪へと自然に移りながら、初対面とは思えないほど打ち解けて話す人がいる。
ああいう人を見ると、素直にすごいと思う。
きっと、人と出会うことそのものが楽しいのだろう。
新しい人間関係が、その人にとっての活力なのだ。
私はそんな姿を少し羨ましく眺めている。
でも同時に、もし自分が同じように振る舞ったら、一時間もしないうちにぐったり疲れてしまうだろうとも思う。
人が嫌いなわけではない。
会話が苦手なわけでもない。
ただ、人と話すということは、自分が思っている以上に心を使うことなのだ。
若い頃は、それでも頑張っていた。
顔は広いほうがいい。
人脈は財産だ。
そんな言葉を信じて、少し無理をしてでも輪の中へ入っていった。
相手に合わせて笑い、話題を探し、場の空気を読み続けた。
それが大人になることだと思っていた。
けれど、いつ頃からだろう。
懇親会の片隅で一人コーヒーを飲みながら会場を眺めている時間のほうが、ずっと心が落ち着くようになった。
以前なら、そんな自分を「社交性がなくなった」と責めていた。
輪の中へ入っていけない自分を、どこか取り残されたように感じていた。
今でも、ときどきそう思う。
賑やかな笑い声を聞いていると、自分だけが外側に立っているような気持ちになる夜もある。
孤立しているのかもしれない、と。
けれど、最近になって気づいたことがある。
孤立していることと、一人でいることは、同じではない。
大勢に囲まれていても、心がどこにも居場所を見つけられない日がある。
反対に、一人でコーヒーを飲みながら窓の外を眺めているだけなのに、不思議なくらい満たされる時間もある。
心理学には、人は年齢を重ねるにつれて、人間関係を広げることよりも、本当に大切な人との時間を選ぶようになる、という考え方がある。
人生には限りがあることを、どこかで知ってしまうからだという。
その話を読んだとき、少し肩の力が抜けた。
私は人付き合いが下手になったのではなかった。
自分にとって心地よい距離を、ようやく知り始めただけだったのだ。
世の中は、相変わらず賑やかだ。
スタジアムでは何万人もの歓声が響き、懇親会では新しい出会いが生まれていく。
その光景は、今でも素敵だと思う。
それを否定したいわけではない。
ただ、自分は少し離れた場所から、その賑わいを眺めている。
昔なら、その場所を「取り残された席」だと思っていた。
けれど今は違う。
そこは、自分の呼吸を乱さずにいられる席なのだ。
年齢を重ねるとは、世界への興味を失うことではない。
自分の心が、本当に動くものだけを静かに選び始めることなのかもしれない。
だから今日も、誰かの熱狂を羨ましく思いながら、その輪に無理に入ろうとはしない。
それでいいのだと思う。
人生の後半は、人に合わせることを覚える季節ではない。
自分に合った居場所を、少しずつ見つけていく季節なのだから。

