ある年代を過ぎた男性には、不思議なくらい共通した夜がある。
仕事帰り、車を駐車場に停めても、すぐには降りない夜。
出張先のビジネスホテルでシャワーを浴び、窓の外に広がる知らない街の灯りをぼんやり眺めている夜。
単身赴任先の部屋で、洗濯機が規則正しく回る音だけを聞きながら、イヤホンを耳に差し込む夜。
家族が寝静まったあと、リビングの照明を一つだけ残し、小さな音量で音楽を流す夜。
そんな夜には決まって、昔の曲が聴きたくなる。
昼間なら選ばない曲なのに、不思議と指は迷わずそのプレイリストを開いている。
イントロが流れた瞬間、それまで張りつめていた何かが、ゆっくりほどけていく。
あれは何なのだろう。
若い頃には、音楽はもっと前向きなものだった。
新しい曲を探し、流行を追いかけ、友人と「この曲がいい」と語り合った。
一曲の歌詞に励まされ、一曲のメロディーに恋を重ね、一曲のサビを何度も口ずさんだ。
あの頃は、音楽は未来へ向かうためのものだった。
ところが、いつ頃からだろう。
新しい曲を耳にしても、心があまり動かなくなった。
その代わり、何十年も前に聴いていた曲ばかりが、静かに胸へ入ってくる。
決して昔のほうが良い時代だったと言いたいわけではない。
あの頃だって、不安はあった。
将来は見えなかったし、仕事も恋愛も思うようにはいかなかった。
それでも、世界には「これから」があった。
何もかもが初めてで、失敗すら新しかった。
だから、あの頃に繰り返し聴いた曲には、音楽だけではない何かが残っている。
夜風の匂い。
改札まで送ってくれた人の後ろ姿。
友人たちと笑い転げたファミリーレストラン。
缶コーヒーを片手に眺めた海。
高速道路のサービスエリア。
雨の日の国道。
あの頃は何気なかった景色が、一曲のイントロだけで静かによみがえる。
音楽というより、人生そのものを聴いているのかもしれない。
そして、そんな曲がいちばん心に染みるのは、決まって一人になれた夜だ。
昼間は忙しい。
会社では上司でもあり、部下でもある。
家庭へ帰れば夫であり、父親であり、ときには息子でもある。
誰かの期待に応え、誰かに気を遣い、誰かのために動く。
そんな一日を終えて、ようやく訪れる「誰にも話しかけられない時間」。
車の中でもいい。
ホテルでもいい。
静かなリビングでもいい。
その短い時間だけは、役割が少しずつ肩から落ちていく。
だから昔の曲は、その隙間に静かに入り込んでくるのだろう。
最近になって知ったことがある。
人は人生の中でも、十代から三十代くらいまでに出会った音楽を、とりわけ深く記憶しているらしい。
人格が形づくられ、多くの「初めて」を経験した時期だからだという。
さらに、懐かしい音楽に浸ることは、過去へ逃げる行為ではなく、「今の自分」と「昔の自分」をもう一度つなぎ直す、健全な心の働きだとも考えられているそうだ。
その話を知ったとき、どこか救われた気がした。
昔の曲ばかり聴いている自分は、前を向けなくなった人間なのだと思っていた。
そうではなかった。
今日まで働き、責任を背負い、家族を守り、何度も迷いながらここまで歩いてきた自分を、静かに確かめていただけだったのだ。
夜に一人で昔の曲を聴く時間は、過去へ帰る時間ではない。
「ここまで、よく歩いてきたな。」
そんな言葉を、誰にも聞こえないように自分へ返してやる時間なのだと思う。
曲が終わる。
イヤホンを外す。
カーオーディオの音量を下げる。
ホテルのカーテンを閉める。
そしてまた、明日の朝になれば、それぞれの役割が始まる。
だからこそ、その前のほんの数分だけは、何者でもない自分でいてもいい。
昔の曲は、若かった頃を懐かしむためにあるのではない。
今日まで生きてきた自分を、もう一度自分自身の味方にしてやるためにある。
そんな気がしている。

